九州南画院ホームページ

九州南画院創立の概要

 昭和38年5月22日、小室翆雲と共に、我が国南画画壇の双璧と称された「松林桂月翁」が亡くなられた際、各新聞社が「日本最後の南画家であった」と報じました。

 その記事を読んだ北九州若松の南画家で歌人でもあった「久保田華房先生」は、ある新聞社の随筆の欄に「日本最後の南画家とは行き過ぎである。」と投稿しました。

 それを読んだ各地の同好の人や南画家から激励の便りが寄せられ、それらの人々と近在の同志に呼びかけて、その年の昭和38年11月に北九州市若松丸伯デパートで第一回の展覧会を開催して、「九州南画院」は発足しました。

 それ以降年2回美術館等で開催してきた九州南画院展は、現在は、会員も年々高齢化し、時代の経過とともに若年層の入会が少なくなり、会員数も減少したことにより、現在は隔年一回の開催となっています。

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第104回 九州南画院展覧会(令和5年10月12日~10月15日)

全作品を掲載(会員順不同)



九州南画院創立の詳細

(九州南画院前会長:箕田韭白2010年日本の美術Ⅴ水墨画Ⅱに記載)

南画は中国の高僧隠元が来日して我が国に広がり、文化文政時代には南画の黄金時代と言われ、明治初期にかけて大いに行われましたが、中期以降、流行におぼれた自称他称の南画家たちが、名利におぼれて生活のために奇をてらって技巧に走り、南宗画の自己の陶冶、自然崇拝の精神を忘れ、世の人に飽かれて次第に衰退の一途をたどりました。

 そこに至って1921年、南画の革新を目標として、日本南画院が創設され、その主領となった「小室翆雲」と共に、日本南画の双璧と称され、文展などで活役し、日本美術協会理事長として日本南画復興に努力した「松林桂月」が、64年5月、86歳で歿しました。その死去を悼んで各新聞が、「日本最後の南画家であった」と報じました。

それを読んだ北九州若松の、歌人で南画家の「久保田華房」は、ある新聞の随筆蘭に筆をとって曰く「桂月翁は、日展系で最高峰であったことに異論はないが、日本最後の南画家であったとは行き過ぎである。これによってあたかも南画が滅び去ったような印象を与えることは、黙ってはいられない。

 徳川幕府の中期から太平の逸民である詩人や学者、庶民の中には優れた雅人墨客によって育て上げられた南画は、九州が発祥の地で、当時我が国随一の貿易港であった長崎に、中国の文人、士大夫の創立なった南画の作品や技法が直接伝えられたので、これを研究し、勉強しようとする人は今の洋画家がパリーに憧れるように、長崎に遊んで研鑽を重ねた。

従って「田能村竹田」をはじめ、幾多の南画家を九州が生んだのはむべなるかなで、南画は滅びるにあらず、九州にはまだ格調高い純粋の南画が保存されている」と。

 この記事は大きな反響があって、各地で活躍している南画家や、同好の人々からの激励や感謝の便りが寄せられたので、近在の先輩や同士と謀って結束を固め、64年10月に北九州市若松の丸柏デパートで第1回の展覧会を開催しました。


 それに参加した人達は次の人々です。小田海遷系の中西耕石に師事した「岩崎天外」。その門の「久保田華房」、「中村檣山」。谷文晁系の児玉果亭に学んだ「小林石雲」。同じ小村翆雲に随った「亀田耕雨」。四条派の姫島竹外の「水島竹翠」。また菊池契月に師事した「米津玄海」。新南画を創立した寺崎広業に師事した「伊勢光雲」。中国に30年滞在して呉昌硯の画法を研究した「西野耕正」らがいました。

 後に同会の主旨に賛同して、田能村竹田系の「木付南画会」、また僧鉄翁系の「長崎派南画」が加盟して、現在の「九州南画院」となりました。

 創立者久保田華房曰く「南画とは、高い教養と思想をともなった詩人派の文人、学者、紳士淑女の人達が、単に文章や詩歌よる以外に、造形美術の手法によってかき描き表した、極めて自由で主観的な立場から、原始的な姿勢を好んだ表現の絵画である」と。

 現在は南画も日本画も、流派的見地から捕らえがたいものになっていますが、その画法筆法は異なっていても自然崇拝の清神や感覚は相通じるものがあり、それを重んじながら各地の伝統を守り、大同団結して発足以来48年、年2回展覧会を開催しているのが現在の九州南画院です。

九州南画院創立に参加した人達

「久保田華房」(九州南画院創立者)(若松南画会)

北九州若松の人。名は瑞一、父の絵画趣味の影響を受けて幼くして絵を好み、小田海僊系の「吉嗣拝山」の門人「岩崎天外」に師事して画法を学び、傍ら古画を研究して「富岡鐡斎」、「田能村竹田」に私淑して「小林石雲」と相師友し雅致ある四君子、花鳥山水に長じて漢詩をよくし、夫人と共に歌学を修め、月刊短歌雑誌「稚松」を主宰し、刊行して天覧の栄に浴しました。

「岩崎天外」(相談役)福岡県筑前芦屋の人、名は清。天外道人と号しました。幼くして絵を好み、6歳の頃から守田洞山に南画の画法を学び、後に小田海僊系の「吉嗣拝山」に師事して特に梅を得意として「梅の天外」と称され、北九州南画会を創立して南画発展に大きく寄与し、また郷土研究会会長として郷土文化発展に貢献しました。

「西野耕正」(相談役)大宰府の人。中国に30余年滞在し、その間呉昌硯の画法を研究して花鳥山水人物、佳ならざるはなく、帰朝して其の門に学ぶもの二千余人といわれ、九州南画発展に大きく寄与しました。

「亀田耕雲」(相談役)福岡県京都郡犀川の人(田川部会)画法を始め「日高東岳」の門に学び、師没後上京して谷文晁派の田崎早雲門の「小室翆雲」に師事して帝展、日本南画院に出品、後に京都に出て妙心寺に入って禅の修行の傍ら、岸派の「今尾景年」門の巨擘「木谷桜谷」に従って高雅な花鳥山水をよくしました。帰国後、田川南画会を設立主宰して各地に南画を指導し、またフランスパリー展に日本代表として出品して日本最高の栄誉をえました。

「米津玄海」(相談役)北九州市小倉の人。画法を「藤井玉蘭」の塾に学び、日本南画院会員、小倉美術協会理事。九州南画発展に大きく寄与しました。

「水嶋竹翠」(相談役)明治32年日田市に生まれる。名は栄一、幼くして絵を好み、大阪に出て四条派で南画の来舶の清人、江稼圃に学んだ「村田東甫」の門人、姫島竹外に内弟子として学び、花鳥山水人物を能くして、竹外南画院の同人となり、後に教授となりました。関西画壇の中堅作家として活躍し、戦後田川市に住して昭和23年日田市の専念寺に三隈画会を創立主宰して日田、玖珠、福岡、小倉で多くの門弟を育成し、九州日本画協会理事となり、田川美術協会の役員を務め、九州南画院発展に大きく寄与しました。昭和61年(1986年)9月16日享年87歳で没しました。

「小林石雲」(会員)山梨の人。(中間南画会)山梨の神官の家に生まれ、南画を谷文晁系の「児玉果亭」の門に学び、漢学を「二松学舎」に、漢詩を「二島中州」に従って能くし、禅学を「新井石禅」に従い、茶、華道を嗜んで花鳥山水人物を能くして石竹を得意とし、南画発展普及に努力しています。その高い教養と文人生活は接する人に多大の影響を与えました。 

 九州南画院の系譜

その他の人達

「井上雨山」田川南画会、田川美術協会、書道、並びに古画を研究した。

「伊勢光雲」新南画の「寺崎広業」に画法を学び、日本全国、朝鮮を遊歴して二百数回の個展をした。

「大賀湘雲」熊本三角、久保天髄に学んで南画鑑賞台湾支部幹事、台湾日本画協会員、墨友会参事。

「井手玉真」福岡筑紫野、南宗派を専修して花鳥山水を能くして地方個展を十数 回、門人を育成した。

「川岡清淵」久保田華房の(稚松)同人、岩崎天外、小林石雲に学ぶ。

「北津到津」北九州遊墨会会長、小倉市文化連盟理事。

「財津松雪」小林石雲に学んで花鳥を能くし、短歌(稚松)同人

「田村峯月」田川南画会、田川美術協会。

「津田青陽」原田聴泉、に師事して南画学び、書を能くして、日の出書道会会長

「中垣楳山」福岡県小郡、吉嗣楳山に学んで自らの画法で門弟を育成した。

「中村檣山」北九州八幡、北九州南画会会員、藤井玉蘭、岩崎天外に師事して山水を能くして梅を写して小倉から北海道まで旅して梅を得意とした。

「中島素水」北九州戸畑、小室翆雲に学ぶ。

「西野定子」西野耕正に師事してフランス国際展に出品した。

「藤原功牛」小倉、日本南画院会員で福岡県美術協会日本画部理事。

「本田景風」熊本県上益城群、四条派の水田竹圃の門に学んで、日本南画院会員、創造美術会員、日本水墨画会員

「山鹿桃郊」北九州八幡、元万朝報社の挿絵画家。後に同会の主旨に賛同して、大分の田能村竹田系の「木付南画会」、「みやこ支部」。また長崎の僧鉄翁系の「長崎青房会」が加盟して、発足以来各派の伝統を守って毎年2回の展覧会を続けているのが現在の九州南画院です。

この様に九州南画院は、南画の大きな系統の中から生まれ、それが一つの会として発展して45年間毎年、年2回の展覧会を開催してきましたが、こんな画会は全国どこにもありません。画風はそれぞれ違っていていても、その精神は同じです。

久保田会長曰く。 

「南画とは、高い教養と思想を持った、詩人派の文人、学者、紳士淑女の人たちが、単に文章や詩歌による以外に、自然の姿を借りて、絵画の手段によって極めて自由に、自己の理想や個性を表現しようとしたのが南画である」と、従って南画は、本来高い理想を持った人達が、娯楽として自らを淘汰する清らかな遊戯であり、その根本は学問にあって、人格を磨かなければその絵には三文の値打ちもないといわれています。

江戸時代の南画家、金井鳥洲曰く。「絵は即ち人の生霊なり。人高ければ絵もまた高く、人俗なれば絵もまた俗なり。一筆の掩筆(かさねがき、ごまかし)すべからず。其の人を見るが如し」。

昭和61年、日田の水嶋先生が病に倒れられ、田川の病院に見舞いに行った時、リハビリの疲れのなか、次の様に言われていました。「今の九州南画院は、南画の大きな画派が集まって、各派の伝統を守って本当の南画の精神を尊重している画会です。こんな立派な会は他にはありません。会を潰すことは簡単ですが創るのは大変です。

久保田先生の意思を継いで盛んになることを願っています、皆さんの努力を期待しています」。と涙ながら言われました。

残念ながら現在会員も少なくなりましたが、この会は以上のような歴史があります。

それぞれの伝統を守り、それぞれの画風に従って研鑽を重ね、他のグループの良い所を学んで自分の絵を描いてください。この会は、自分の会です。皆さんの努力で盛んにしたいものです。大切に育てましょう。

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